三色団子やみたらし団子など、串団子をよく見てみると数に違いがあるものです。3個、4個、5個など串団子の数に違いがあるのはなぜなのでしょうか。発祥地や関西や関東の数の違いなど串団子の歴史をひも解きながら、数の違いについて詳しくご紹介いたします。
団子と串団子の発祥地や歴史
日本で団子の原型となる食べ物が生まれたのは、1万年以上も続いて栄えた縄文時代と考えられています。当時は穀物を使った団子ではなく、どんぐりなどの木の実を粉にして作っていたようです。
その後、奈良時代から平安時代にかけて、中国大陸から米や豆を挽いて粉にしたものから作られる唐菓子が日本へ伝わります。そのなかのひとつの「団喜(だんき)」という団子に似たお菓子が団子という名前の由来となりました。
団子を串に刺して提供し始めたのは室町時代に入ってから。かつては神様へのお供え物や身分の高い人が口にするものだった団子は、江戸時代に入ると庶民の食べ物としても広く流通していくのです。
出典:農林水産省
みたらし団子の発祥は京都の下賀茂神社
串団子の種類のひとつで、現在でも人気のみたらし団子。こちらは、鎌倉時代の京都の下賀茂神社が発祥地とされています。時代の流れがややこしくなってきたので、団子や串団子の歴史をざっくりと整理していきましょう。
・団子、串団子の歴史
縄文時代(団子の原型)→奈良・平安時代(唐菓子が伝わり、団子と呼ばれる)→鎌倉時代(みたらし団子誕生)→室町時代(串団子が広まる)→江戸時代(庶民の食べ物へと発展)
みたらし団子の数が5個となったのは、鎌倉時代後期の帝であった後醍醐天皇が下賀茂神社に参拝した際のエピソードが元になっています。
下賀茂神社の境内に流れる御手洗川(みたらしがわ)では、川の底から清水が泡となって湧き上がる様子が縁起良しとされていました。
そんななか、後醍醐天皇が参拝したその時、泡が1つ、続けて4つ湧き出たことから、泡を団子になぞらえてみたらし団子になったとされています。
物の価格は4の倍数?関東の串団子の数は4つ!
江戸時代、関東地方でも当初は5個のみたらし団子が京都から伝わり、主流となっていました。しかし、1678年に4文銭(しもんせん)という貨幣が作られるようになると、16文、24文など4の倍数が物の価格として定着していきます。
江戸幕府が公式貨幣として採用していた寛永通宝には、元より1文銭も存在していました。しかし、お釣りが要らずワンコインで支払いが済んでしまう4文銭の登場により、串団子の数は5つから採算の合う4つに変化していったのです。
当時は現代の100円ショップを彷彿とさせる4文銭均一の4文屋(しもんや)と呼ばれるお店まであったのだとか。現在の関東の串団子の数がみたらし団子にかかわらず、4個が主流であるのは、江戸時代の流通事情の名残ではないかとされています。
関東との違い?関西の串団子の数は3個が主流
現在の関東では串団子の数は4個が主流のようですが、関西では串に団子3個を刺して売っている串団子が圧倒的に多いのではないでしょうか。関西の老舗の和菓子屋では、現在でもみたらし団子は5個で売られていることがあります。
関西の串団子の数が3個や5個であることが多いのは、奇数の縁起の良さがひとつの理由であるようです。奇数の縁起の意味は、割り切れない(割れない)数字として慶事に重宝されるから、陰陽道では陽を意味するからなど諸説あります。
また、有名な三色団子(花見団子)は、豊臣秀吉が開いた京都・醍醐寺の茶会で誕生したことから、京都の歴史が深く影響しているとも考えられそうです。
業務用和菓子なら福助へ!串団子は3個と5個
大阪府高槻市に和菓子工場や店舗を持つ、創業60年超の福助。ホテル・旅館・催事販売・介護施設・学校給食などでご利用いただける業務用冷凍和菓子を製造する老舗企業です。
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福助の三色団子は数が3個で、自然解凍するだけで美味しくお召し上がりいただけます。みたらし団子用の串団子の数は、京都の伝統そのままの5個です。
自然解凍した後に焼いてからたれをつけると、甘くて香ばしいみたらし団子が出来上がります。串団子とみたらし団子用のたれも含めて、賞味期限は180日と長持ちです。業務用串団子をお求めの方は、ぜひ地元でも愛される福助へご用命ください。
歴史ある串団子の美味しさを堪能しよう
三色団子やみたらし団子など、串団子の数は関東と関西でそれぞれ違いがあります。関東の串団子は4個、関西では3個や5個が主流です。発祥エピソードや発展してきた深い歴史に思いを馳せながら、串団子の美味しさを堪能していきましょう。